江戸後期から明治期における加藤家の概略
揖保川が下流で大きく分岐する左岸に位置する加藤家は、江戸時代一橋家その他天領から運び込まれる年貢米の収受や保管、さらに売却を一手に行う蔵元で、揖保川の水運を利用して廻船業を営み、屋号を成田屋と称した。
なお幕末期より地元産の塩を使用して醤油や素麺業を営み、『網干町史』によると「すこぶる富む」と富裕な豪商の姿を伝えている。
なお加藤家には文化10年生まれ、明治38年92歳の高齢で亡くなった高文氏と長男邦太郎氏の手記が古文書資料として現在姫路市に委託されている。これらの資料によると、代々次郎兵衛を名乗ったようで、次郎兵衛の名が年代を越えて散見できる。また成田屋の屋号は享保17年(1732)勘十郎の名で現れ、加藤の苗字が使われ始めるのは寛政2年(1790)を初出とし、苗字のみの拝領だったのか帯刀御免だったのかは今のところ資料を欠く。
都市景観重要建築物等
名 称
加藤家住宅
所 在 地
姫路市網干区余子浜53番地
指定番号
第34号
指 定 日
平成18年(2006年)10月17日
姫路市