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現在、浄土宗西山禅林寺派に属する『鶴立山 大覚寺』は、天福元年(1233)定翁隆禅上人の開基である。隆禅上人はもと天台宗比叡山の僧であったが、念仏一筋に生きる決心をし山を下り諸国を歩くうち、現在の大覚寺より3キロほど北の砂山という地に「釈迦堂」があり、ここに入って残りの生涯を念仏に明け暮れたと伝えられています。
この「釈迦堂」は、後に『鶴林山 光接院』と改称して真言宗に属していたのですが、これら開基以来の歴史を正しく伝える史料は残念ながら多くありません。
大覚寺に現存する天保十二年(1841)十二月記の「由来書」によれば、「光接院」には専称寺・徳栄寺など末寺七ヶ寺を数え、その後永正年間(1504~21)に真言宗から浄土宗に転宗したのですが、天文三年(1534)、赤松氏の乱の折に兵火にかかり堂宇を焼失しました。
当時第七代住職である空鑒尭淳上人は、寺の再建を発願し一字三礼(一字書くたびに三回礼拝する)の阿弥陀経を心血注いで書写し、仏法を広めるのに適した土地を求めて歩いていました。
その時、一羽の白い鶴がまるで上人を導くかのように飛来し、浜辺にあった三宝荒神社の大きな松の木にとまったのです。この荒神社は古くから網干の祖神として祀られ、三宝荒神は仏法の守護神でもあるので、尭淳上人はここを寺域と定め、東西百余間・南北五十間を境内として院を現在の地に移しました。
そして、白鶴の奇瑞を永く後世に伝えるために、山号を『鶴立山』、寺号を『大覚寺』と改めたのが始まりであると伝えられています。
その後、第十三世中興空韻俊与上人の寛永十一年(1634)十一間四面の本堂が建てられ現在に至っています。
江戸時代には、寺領三十石の朱印地として『三葉葵』の紋を許され、十万石の大名と同じ格式を持ち、また丸亀京極家の参勤交代の本陣ともなっていました。
江戸時代初期の建造である本堂・観音堂・総門・荒神社の四棟が、文化財として姫路市の指定を受けています。他に庫裡・地蔵堂・薬師堂・八幡社・経蔵・鐘楼・釈迦堂などがあり、往時には境内に西明寺・法華寺・実津院・海蔵院などの子坊がありました。
塔頭の実津院には寺子屋が設けられ、近隣の子女の教育に貢献していました。元禄の頃には、後に不生禅を唱え龍門寺を開創された盤珪国師や、幕末の勤皇志士で詩人として知られた河野鉄兜らが学んでいます。
参考文献及び資料
「兵庫県大百科事典上巻」神戸新聞出版センター編集・発行 昭和58年10月1日
「寺院の絵画 姫路市・大覚寺」兵庫県立歴史博物館編集・発行 平成10年1月10日 など