網干文書
「羽柴秀吉の書状」
( )「秀吉・花押」の名で網干地下人中(今の自治会に当たる)に宛てた命令書である。
毛利と敵対する織田の軍団は羽柴秀吉を総大将として、播磨に侵攻した。
毛利と同盟する英賀城(現在の姫路市飾磨区英賀)城主・三木通秋は一向宗の熱心な門徒であったため、石山本願寺に兵や食糧などを派遣し、信長の勢力に対抗していた。
天正5年、毛利から派遣された小早川水軍が5000人の兵力で英賀領内に上陸してきた時、小寺孝高(黒田官兵衛)の率いる500人の軍勢で奇襲し、毛利軍を撤退させた。これを「英賀(あが)合戦」という。
この時、秀吉が網干の住民に対して、縄や竹を持ってできるだけの人員を英賀に集結させるよう、戦争協力を要請した書状である。
これらの播州攻めの戦功によって、小寺官兵衛は信長から網干を含む「播磨福井荘」一万石を与えられ、大名となっている。