2008年(平成20年)4月のミニミニ法話・お説教
~蛙の歌が聞こえてくるよ~ (『月影抄』 P.72)
寺の境内に池がある。「放生池」という。ふだん、殺生ばかりしている人間が、ふと慈悲の心をおこし て、捕えた魚などを放してやって供養するための池である。ここに、いつの頃からか鯉や鮒にまじって食用ガエルの夫婦が同居するようになった。夏になると、 ボーボーと牛のような声で鳴いて生きている喜びを天地いっぱいに響かせていた。
ある日、二、三人の中学生がやってきて網で蛙を捕まえようとしている。どうするのかと尋ねたら、
「理科の時間にかいぼうするのだ」という。せっかく仲良く暮らしているものを、不憫だとは思ったが、彼らの勉強のためになるのなら仕方あるまいと思って許してやった。中学生は大喜びで、一番大きいやつをつかまえて、意気ようようとぶらさげて帰っていった。
数日後、再びその中学生に出会ったので、あの時の蛙をどうしたか聞いた。彼らは口々に、理科の時間にかいぼうした時の様子を得意そうに話してくれた。生き
た蛙の腹を鋭いメスで切り裂いていくことは、彼らにはゾクゾクするようなスリルにちがいない。そのあと蛙をどうしたか尋ねると、さも当然のように、「ゴミ
焼却炉へ捨てた」
というのである。そこには、蛙に対する一片のあわれみも同情もなく、ましてや命を犠牲にして生命の神秘を教えてくれた蛙に対する感謝の気持ちなどこれっぽっちも感じられなかった。
ネズミやゴキブリの死がいを片付けるのとは訳がちがう。生きたまま切り裂かれながら、生命のいとなみの不思議さを教えてくれた蛙ではないか。せめて花壇のすみに穴でも掘ってうめてやり、花をそなえて「ありがとう」と手を合わせることができなかったのであろうか。
理科の教育は、こどもたちに「科学する心」を教える一方で、こうした生命に対する畏敬の念が軽視されているように思えてならない。蛙の命を一片のモノとしか見ない教育は、やがて人の命をもモノとして軽んずる心を育ててしまうのではないか。
教育の問題だけではない。人間はもともと他の生命を殺し、犠牲にしなければ生きてはいけない。生きていること自体が罪を重ねている存在だとも言える。だから、生きとし生けるすべてのものに、「あなたのおかげだ」
と合掌する心が大切なのである。その時、生命の尊さと、生かされている歓喜とがしみじみ味わえるのである。
今、学校では鮒も蛙もかいぼうしない。すべて標本で知識を教える。蛙にとっては喜ばしい。が、生命はますます軽んじられている。
時は夏。蛙の歌声が聞こえてくる季節である。
蛙よ、鳴くがいい。生きている喜びを精一杯歌うがいい。生命に対する畏敬の念を忘れた人間どもに、「歓喜の歌」を聞かせてやるがいい。
たった一つのいのち。だから尊い。