2008年(平成20年)4月のミニミニ法話・お説教
~まことをつくす人 ~ (『月影抄』P.26)
網干の生んだ偉大な禅師、名を盤珪という。
今を去る三百年ほど前の元禄六年(1693)龍門寺で寂。年七十二歳。
「身どもはわんぱく者にて、悪いこと仕でござった」
と自らのべるように、少年の頃はガキ大将で、たいへんな腕白者であった。
しかも、揖保川を渡って興浜の大覚寺で書道を習わせられるのがいやでたまらず、い
つも中途でサボって帰ってくるしまつであった。腕白者であるうえに落ちこぼれ―これが少年盤珪の姿であった。
しかし出家して後、すさまじいばかりの猛烈な
修行の結果、
「不生の仏心ひとつで一切のことは整う」
という悟りを得て、後には天皇から「禅師・国師」の号を賜るほどの尊信を受け、ひろく民衆にあがめられた。
盤珪禅師が、故郷網干の龍門寺で多くの弟子や修行僧を集めて安居結制(一定の期間、寺にこもって修行に専念すること)した時のこと。
中に一人、手クセの悪
いのがまぎれこんでいて、これが次から次へと問題をおこす。仲間の金品を盗むので統制が乱れ、弟子たちは動揺し修行にならない。ついに業をにやした修行僧
たちは、代表をたてて禅師に団交を申し入れる。
「どうか、あの男を追放してほしい」
だが、禅師は口では応じながら何日たってもこの手クセの悪い僧をいっこうに処分する様子がないし、注意すらしようとしない。たまりかねて再三、追放をと要 求しても禅師はまったく知らぬ顔をきめこんでいる。男の盗癖はあい変わらず続き、弟子たちの怒りはついに爆発。
「師匠。いったいどういうおつもりか。不偸盗戒は釈尊の厳にいましめられた大罪。それを犯す男を処分されぬのならば、われら一同、荷物をまとめて当寺を退
散つかまつるが、よろしいか」
いわばこれは強迫である。
ここまで言えば、さしもの禅師も大あわてにあわてて何とかするであろう―。
その時、盤珪禅師は悲しげな表情をうかべて言った。
「やめたい者は、やめるがいい」
これには一同、あっけにとられる。
「やめてもいいのですか」
「仕方がなかろう。やめたいという心境に至ったものには、もはやなにも教えることはない。お前さまたちは、他の道場へ行っても立派に修行できるだけの器量
をもっておる。が、あの男はどうだろう。こんなところに来てまで、悪いと知りつつ盗癖の改まらぬ男は他にどこにも行き場がなかろう。
できそこないの男の淋
しさと悲しさは、この私にはよくわかる。私もかつては出来損いであった。誰をやめさせても、あの男は、辞めさせることはできぬ」
大河の水がひたひたと押し寄せてくるような勢いの言葉であった。
弟子たちは感動し、とりわけ盗癖の男は、つきものが落ちたように行いが改まったという。
昨日までの悪人も、今日これまでの非を反省し、仏心そのものに立ちかえれば、今日からは活きた仏さまである、と盤珪禅師は主張する。一人の男を救うのに、 まことをつくした人であった。
今日の教育の問題の原点がここにある。
非行に走る者に、口うるさく説教しても効果は少ない。まして、切り捨てて解決するものでは断じてない。問題行動をお
こさざるをえない者の心を、どれほどわかってやっているか。どれだけ相手を信じ、認められるか。
親や教師が変わらなければ、子は変わらない。
親はなくても子は育つが。親心なくしては子は育たない。