2011年(平成23年)11月のミニミニ法話・お説教
2011年(平成23年)11月
~ 第044回 「幸せの在(あ)りか」 ~
「幸せ」というのは、一体なんでしょうね。
「それはね、他人の不幸を眺めることから生ずる、気持ちの良い感覚だよ」という、きわめて皮肉な言い方をする人がいます。
裏を返せば、他人の幸せを見れば「妬み心」が生ずるということでしょう。これが人間の本性というなら、悲しいことですね。
永観堂の御影堂へ渡る廊下には毎月、季節感に満ちた美しい写真とともに「今月の言葉」が掲示されていて、ホームページにも載せられています。
10月の言葉は「幸せは求めるものでなく、感じるものである」と書かれていました。カール・ブッセの詩のように、山のあなたの空遠くまで探し求めても、結 局「涙さしぐみ帰り来ぬ」ことになるのです。
不幸の体積なら涙の量ではかることができても、幸せの体積となると計る基準がありません。幸せを感じる心とは、ひろびろとしていて爽やかな気持ちでいる ことです。
作家の田辺聖子さんは「自分を理解してくれる人のそばにいること」といっていますが、
確かにこれも重要な要素といえます。
幸せをテーマにした詩のなかに、茨木のり子さんの「答」という作品があります。
「ババさま、ババさま。今までババさまが一番幸せだったのは、いつだった?」
来し方を振り返り、ゆっくり思い巡らすと思いきや、祖母の答は間髪をいれず、
「火鉢の周りに子どもたちを坐らせてね、かき餅を焼いてやったとき」だった。
間髪を入れずに、という表現に、ババさまの確信の強さがうかがえますね。
一番幸せだったのは、子どもたちにかき餅を焼いてやった時だった。つまり、幸せというのは平凡な日常の中にあるのだ、といっているのです。
仏教の言葉に「無事是貴人」(ぶじこれきにん)という禅語があります。(臨済録)
無事である人こそが貴人である、という教えです。
毎日の生活に慣れきってしまうと、それを成りたたせているもののお蔭を忘れて、生活に不満を抱くようになったり、人の幸せを妬んだり、愚痴をこぼしたりす るようになります。
殊に今年の三月に発生した大地震によって、平凡な日常を奪われた東日本の人々の悲しみや苦しみに思いを致すとき、平凡の尊さを痛切に感じます。
平凡の無事に感謝しなければ、バチがあたりますよ。