2015年(平成27年)11月のミニミニ法話・お説教
2015年(平成27年)11月
~ 第092回 「一日作さざれば一日食らわず」 ~
11月23日は勤労感謝の日。「勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日」と定義されています。
この日は、もともと「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれて、その年の穀物の収穫を天地の神に供えて、天皇自らも食する儀式が行われていたのです。
それを「勤労感謝の日」と改めたのは、アメリカの感謝祭(Thanksgiving Day)に倣ったものです。
「学究の徒として勤労感謝の日」 (三村純也)という句があります。
作者は大学の教授として、研究者であっても労働者や生産者ではないことに多少の引け目を感じながら「勤労」に感謝している、という心が感じられます。
人間、生きるためには働かなければいけませんし、学ばなければなりません。けれど、それを義務だと思うと辛くなりますね。
楽しく学ぶのが望ましいのですが、それにはどうすればいいのでしょうか。
昔、中国に百丈という禅師がいました。八十歳になっても鋤や鍬を持って働かれるので、弟子達が「体に障りますから」と止めますけれど、なかなかやめません。
そこで弟子たちは道具を隠してしまいました。百丈禅師は仕方なく部屋に引きこもりますが、以来、食事をしなくなりました。
弟子達が心配して尋ねますと、「一日(いちじつ)なさざれば、一日食らわず」と答えました。
「一日生きたら、そのお礼に一日勤めをしなければならない。それが出来なかったから、食事はいただけないのだ」と、箸を取らなかったのです。
弟子たちは始めて気がついて、隠した道具を取り出してお詫びを申し上げて、やっと許されたという話があります。
これは「働かざる者は食うべからず」という考え方とは全く異なります。仏教では「作務」(さむ)といって、生かされていることに感謝して仏の作業をすることをいいます。
日常の働く生活が、感謝の報恩行であり、仏道修業なのです。「働く」とは「傍(はた)の者を楽にする」という意味もあるのです。
電車の中で辞書を引きながら原書を読んでいる一人の老人がいました。
それを見た女子高校生が驚いて「おじいさん、偉いね」というと、「命のある間に勉強しなくてはね」という答えが返ってきました。
生活や試験のためにだけ働いたり勉強したりするのでなく、「命をいただいているお礼に」と思って勤めれば、きっと楽しくやっていける筈です。
この日は、もともと「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれて、その年の穀物の収穫を天地の神に供えて、天皇自らも食する儀式が行われていたのです。
それを「勤労感謝の日」と改めたのは、アメリカの感謝祭(Thanksgiving Day)に倣ったものです。
「学究の徒として勤労感謝の日」 (三村純也)という句があります。
作者は大学の教授として、研究者であっても労働者や生産者ではないことに多少の引け目を感じながら「勤労」に感謝している、という心が感じられます。
人間、生きるためには働かなければいけませんし、学ばなければなりません。けれど、それを義務だと思うと辛くなりますね。
楽しく学ぶのが望ましいのですが、それにはどうすればいいのでしょうか。
昔、中国に百丈という禅師がいました。八十歳になっても鋤や鍬を持って働かれるので、弟子達が「体に障りますから」と止めますけれど、なかなかやめません。
そこで弟子たちは道具を隠してしまいました。百丈禅師は仕方なく部屋に引きこもりますが、以来、食事をしなくなりました。
弟子達が心配して尋ねますと、「一日(いちじつ)なさざれば、一日食らわず」と答えました。
「一日生きたら、そのお礼に一日勤めをしなければならない。それが出来なかったから、食事はいただけないのだ」と、箸を取らなかったのです。
弟子たちは始めて気がついて、隠した道具を取り出してお詫びを申し上げて、やっと許されたという話があります。
これは「働かざる者は食うべからず」という考え方とは全く異なります。仏教では「作務」(さむ)といって、生かされていることに感謝して仏の作業をすることをいいます。
日常の働く生活が、感謝の報恩行であり、仏道修業なのです。「働く」とは「傍(はた)の者を楽にする」という意味もあるのです。
電車の中で辞書を引きながら原書を読んでいる一人の老人がいました。
それを見た女子高校生が驚いて「おじいさん、偉いね」というと、「命のある間に勉強しなくてはね」という答えが返ってきました。
生活や試験のためにだけ働いたり勉強したりするのでなく、「命をいただいているお礼に」と思って勤めれば、きっと楽しくやっていける筈です。