2015年(平成27年)3月のミニミニ法話・お説教
2015年(平成27年)3月
~ 第084回 「多生の縁」 ~
私たちの人生は「巡りあいの連続だ」といわれます。さまざまな巡りあいによって生かされているはずなのに、それに気付かないでい
ることがあまりにも多いようです。
良寛さんにも、そんなエピソードがあります。岡山の玉島・円通寺で修行しているとき、同じ修行僧に「仙桂」という仲間がいました。
ところが、仙桂は一言もしゃべらず、身なりも構わず、三十年も円通寺 にいながらお経も読まず、座禅もしないという、風変りな僧侶でした。
ただ、彼は毎日黙々と畑を耕し、野菜を上手に作って仲間に食べさせるだけでなく、寺に来る人たちに惜しみなく施していました。
良寛さんは三十三歳で師匠から印可(悟りを得たという証明書)を得て、それから三年間の諸国行脚を終えて、故郷の越後へ帰ってきました。
ある日、庵で勤行している時に、突然、かつての仲間である仙桂の存在に気が付くのです。
「そうだ、彼こそひたすら己の分を知り、人の喜びや幸せを優先し、黙々と大地に向かって座禅していたのだ!」
当時、愚のごとく見える仙桂の真価に、はじめて気付いたのです。
「当時われこれを見て、見ず これに遇うて 遇わず
ああ、今これをならわんとするも得べからず 仙桂和尚は真の道者」
こんな詩を作って彼を偲んでいます。考えてみれば、私の中にもこんな仙桂和尚が存在していたのです。出会っていたのに気がつかない・・・。
「袖振り合うも多生の縁」「つまずく石も縁のはし」という言葉があるように、仏教では縁の深さを大切なものとして説きます。
「多生の縁」というのは、生まれる前から多くの生を経る間に結ばれた「縁」という意味です。この世で出逢う人とはすべて、見えぬ糸でつながっているので す。
なのに、毎日の生活の中で、書物や仕事を通してさまざまな人との触れ合いがありながら、忙しさに押し流されてしまうとは、勿体ないことです。
「多生の縁」が私たちの心の栄養素となるためには、精神的な感性が重要です。出逢いの縁を大切に、生かされて生きねばなりませんね。
良寛さんにも、そんなエピソードがあります。岡山の玉島・円通寺で修行しているとき、同じ修行僧に「仙桂」という仲間がいました。
ところが、仙桂は一言もしゃべらず、身なりも構わず、三十年も円通寺 にいながらお経も読まず、座禅もしないという、風変りな僧侶でした。
ただ、彼は毎日黙々と畑を耕し、野菜を上手に作って仲間に食べさせるだけでなく、寺に来る人たちに惜しみなく施していました。
良寛さんは三十三歳で師匠から印可(悟りを得たという証明書)を得て、それから三年間の諸国行脚を終えて、故郷の越後へ帰ってきました。
ある日、庵で勤行している時に、突然、かつての仲間である仙桂の存在に気が付くのです。
「そうだ、彼こそひたすら己の分を知り、人の喜びや幸せを優先し、黙々と大地に向かって座禅していたのだ!」
当時、愚のごとく見える仙桂の真価に、はじめて気付いたのです。
「当時われこれを見て、見ず これに遇うて 遇わず
ああ、今これをならわんとするも得べからず 仙桂和尚は真の道者」
こんな詩を作って彼を偲んでいます。考えてみれば、私の中にもこんな仙桂和尚が存在していたのです。出会っていたのに気がつかない・・・。
「袖振り合うも多生の縁」「つまずく石も縁のはし」という言葉があるように、仏教では縁の深さを大切なものとして説きます。
「多生の縁」というのは、生まれる前から多くの生を経る間に結ばれた「縁」という意味です。この世で出逢う人とはすべて、見えぬ糸でつながっているので す。
なのに、毎日の生活の中で、書物や仕事を通してさまざまな人との触れ合いがありながら、忙しさに押し流されてしまうとは、勿体ないことです。
「多生の縁」が私たちの心の栄養素となるためには、精神的な感性が重要です。出逢いの縁を大切に、生かされて生きねばなりませんね。