2015年(平成27年)5月のミニミニ法話・お説教
2015年(平成27年)5月
~ 第086回 「おふくろさん」 ~
今年もまた「母の日」が来ました。そういえば最近、森進一さんの歌う「おふくろさん」をテレビやラジオで聴かなくなりましたね。
1980年代後半に「新人類」という言葉が使われるようになり、その頃の女性が今や40代となっているのですが、「ママ」にはなれても子どもの悩みや喜び をみんな包み込んでくれる「おふくろさん」というイメージではありません。
なにしろ、「おふくろの味」がなくなり、スーパーなどの「ふくろの味」ばかりの時代ですから。
私のような「おじん」と呼ばれる世代が抱く「おふくろさん」のイメージといえば、基本的には「耐える」という点にあるのです。
朝早くから起きて凍てつくような寒さでも、井戸水で米をとぎ、かまどで火をおこして、ご飯をたいて味噌汁を作っていた姿を想い浮かべます。
子どもの弁当を作り、学校へ送りだして、昼間は洗濯や掃除、夜は縫物などで遅くまで起きていた姿。夜なべをして手袋を編んでくれたり、あかぎれが痛かった り・・・「かあさんの歌」そのままの姿がありました。
ところが、私たち子どもはそんな母さんに必ずしも感謝をしませんでした。そんなことは当然だと思って、やれ、おかずがないの、腹が減ったの、と文句ばか り言っていたのです。
それに黙々と耐えていたのが、“おふくろさんの偉さ”だったのです。
「父母恩重経」に次のような言葉があります。
「母にあらざれば養われず。母にあらざれば育てられず。おのれ生きている間は、子の身に代わらんことを思い、己れ死に去りて後は、子の身を護らんことを願 う。かくの如き恩徳、いかにして報ずべき」
子どもが悩み苦しんでいるときは、代わってやりたいと思い、母が死んで後も子の身を案じ護り続けてくれている、と釈尊は説かれているのです。
この年になると、ただただ母の苦労に感謝の思いが募るばかりです。
「十億の人に十億の母あれど わが母にまさる母あらめやも」 暁烏 敏
一人ひとりが自分の母親という存在そのものに真剣に思いを馳せることができたなら、きっと世の中はもっと素晴らしいものになるに違いない、と思うので す。
1980年代後半に「新人類」という言葉が使われるようになり、その頃の女性が今や40代となっているのですが、「ママ」にはなれても子どもの悩みや喜び をみんな包み込んでくれる「おふくろさん」というイメージではありません。
なにしろ、「おふくろの味」がなくなり、スーパーなどの「ふくろの味」ばかりの時代ですから。
私のような「おじん」と呼ばれる世代が抱く「おふくろさん」のイメージといえば、基本的には「耐える」という点にあるのです。
朝早くから起きて凍てつくような寒さでも、井戸水で米をとぎ、かまどで火をおこして、ご飯をたいて味噌汁を作っていた姿を想い浮かべます。
子どもの弁当を作り、学校へ送りだして、昼間は洗濯や掃除、夜は縫物などで遅くまで起きていた姿。夜なべをして手袋を編んでくれたり、あかぎれが痛かった り・・・「かあさんの歌」そのままの姿がありました。
ところが、私たち子どもはそんな母さんに必ずしも感謝をしませんでした。そんなことは当然だと思って、やれ、おかずがないの、腹が減ったの、と文句ばか り言っていたのです。
それに黙々と耐えていたのが、“おふくろさんの偉さ”だったのです。
「父母恩重経」に次のような言葉があります。
「母にあらざれば養われず。母にあらざれば育てられず。おのれ生きている間は、子の身に代わらんことを思い、己れ死に去りて後は、子の身を護らんことを願 う。かくの如き恩徳、いかにして報ずべき」
子どもが悩み苦しんでいるときは、代わってやりたいと思い、母が死んで後も子の身を案じ護り続けてくれている、と釈尊は説かれているのです。
この年になると、ただただ母の苦労に感謝の思いが募るばかりです。
「十億の人に十億の母あれど わが母にまさる母あらめやも」 暁烏 敏
一人ひとりが自分の母親という存在そのものに真剣に思いを馳せることができたなら、きっと世の中はもっと素晴らしいものになるに違いない、と思うので す。