2017年(平成29年)4月のミニミニ法話・お説教
2017年(平成29年)4月
~ 第109回 「柳絮(りゅうじょ)飛ぶ」 ~
「新天地拓くごとくに柳絮飛ぶ」 遠藤睦子
春四月。柳が葉を伸ばす前に、白い綿毛のついた小さな種が春の風に乗って空に舞います。
いかにも春らしくて、心をのどかにさせる光景です。初々しいところは新入社員に喩えられるでしょうか。
俳句では、この柳の白い綿を「柳絮」と呼んでいます。柳絮の白い綿毛が静かに流れる中に身を置くと春うらら。
些細なことは一切消え去って、情感に満ちたひと時がこころを安らげてくれます。
しかし、柳絮に込められた柳の親ごころは、そんなのんびりしたものではないようです。それは、新天地を求めての命がけの出発なのだそうです。
柳は好んで石のゴロゴロした、カンカン日の当たる土地に根を張って樹林を作ります。
柳絮は荒れ地を緑化するパイオニアだと言われているのです。冒頭の句は、そういう柳絮の景色がうまく詠まれています。
この時期は、学校を卒業した若者が社会人として旅立つ時期であり、新たな出会いの季節でもあります。
希望に胸を膨らませながらも、不安をかかえていることでしょう。柳絮のパイオニア精神に学んで、生き甲斐のある自分の道を見つけてほしいものです。
その為の証しとして三つの「気の持ち方」が問われています。
その一つは、生きていて良かったという実感があるかどうか。
二つ目は、人や物に「有難い」という感謝の念が持てるかどうか。
三つ目は、「自分はやるぞ!」という、やる気があるかどうか。
が決め手だといわれています。
生き甲斐というのは、しあわせの代名詞といってよく、それを手に入れるためには、これから何かをしようとする仕事、今自分がかかわっている仕事を天職と心得て、それに最善を尽くして努力することじゃないでしょうか。
「東へも、西へも行かんと思い、ひと足ずつ運べば必ず行きつくものなり」
これは江戸時代の仮名草紙作者で、深く仏教に帰依した鈴木正三(しょうさん)という人の言葉です。
荒れ地を求め旅する柳絮のバイタリティーに学びたいですね。
春四月。柳が葉を伸ばす前に、白い綿毛のついた小さな種が春の風に乗って空に舞います。
いかにも春らしくて、心をのどかにさせる光景です。初々しいところは新入社員に喩えられるでしょうか。
俳句では、この柳の白い綿を「柳絮」と呼んでいます。柳絮の白い綿毛が静かに流れる中に身を置くと春うらら。
些細なことは一切消え去って、情感に満ちたひと時がこころを安らげてくれます。
しかし、柳絮に込められた柳の親ごころは、そんなのんびりしたものではないようです。それは、新天地を求めての命がけの出発なのだそうです。
柳は好んで石のゴロゴロした、カンカン日の当たる土地に根を張って樹林を作ります。
柳絮は荒れ地を緑化するパイオニアだと言われているのです。冒頭の句は、そういう柳絮の景色がうまく詠まれています。
この時期は、学校を卒業した若者が社会人として旅立つ時期であり、新たな出会いの季節でもあります。
希望に胸を膨らませながらも、不安をかかえていることでしょう。柳絮のパイオニア精神に学んで、生き甲斐のある自分の道を見つけてほしいものです。
その為の証しとして三つの「気の持ち方」が問われています。
その一つは、生きていて良かったという実感があるかどうか。
二つ目は、人や物に「有難い」という感謝の念が持てるかどうか。
三つ目は、「自分はやるぞ!」という、やる気があるかどうか。
が決め手だといわれています。
生き甲斐というのは、しあわせの代名詞といってよく、それを手に入れるためには、これから何かをしようとする仕事、今自分がかかわっている仕事を天職と心得て、それに最善を尽くして努力することじゃないでしょうか。
「東へも、西へも行かんと思い、ひと足ずつ運べば必ず行きつくものなり」
これは江戸時代の仮名草紙作者で、深く仏教に帰依した鈴木正三(しょうさん)という人の言葉です。
荒れ地を求め旅する柳絮のバイタリティーに学びたいですね。