2009年(平成21年)10月のミニミニ法話・お説教
2009年(平成21年)10月
~ 第019回 「出会い ふれあい めぐり会い」 ~
私たちの人生は、「めぐり会いの連続だ」といわれます。でも、さまざまな巡り合いによって生かされているはずなのに、それに気づ
かないでいることが、あまりにも多いのですね。
越後の良寛和尚にも、そんなエピソードがあります。
若い頃、備前玉島の円通寺で修行しているときに、仙桂という仲間が寺にいたのです。
ところが仙桂は、一言もしゃべらず、身なりも構うことなく、まったく目立たないで、参禅もしませんでした。
ただ彼は、毎日黙々と畑を耕し、野菜を上手に作って、寺に来る人たちに施している、ただそれだけだったのです。
良寛さんは三十三歳で師匠から印可を受けて、それから三年の間、諸国行脚の旅を終えて、故郷の越後へ帰ってきました。
ある日、庵でお勤めの最中に、突然、かつての仙桂和尚の存在に気がついたのです。
「そうだ、彼こそ、ひたすら自分を守り、人の幸福を願い、黙々と大地に向かって禅を行じていたのだ」
と悟ったのです。
当時 我これを見ず。これに会って会わず。
ああ、今これを習わんとするも得べからず。
仙桂和尚は真の道者。
こんな詩を作って彼を偲んでいます。
考えてみれば、私の中にもこんな「仙桂和尚」がたくさん存在していますね。
出合っていたのに、気づかない。人の美点が、見えない。
「袖触れ合うも多生の縁」という言葉があるように、仏教では縁の深さを大切にします。
人生は出会いである。「縁」が出会いのきっかけである、と教えています。
日日の営みのなかで、仕事を通して、あるいは書物を通して、実にさまざまな出会いがありながら、それに気づかずに行過ぎてしまう。もったいないことです ね。
相田みつをさんも、作品のなかで「その時の出会いが人生を根底から変えてしまうことがある。よき出会いを」といっています。
「邂逅」と呼べる、ほんものの出会いを大切に、生かされていかなくてはなりませんね。
越後の良寛和尚にも、そんなエピソードがあります。
若い頃、備前玉島の円通寺で修行しているときに、仙桂という仲間が寺にいたのです。
ところが仙桂は、一言もしゃべらず、身なりも構うことなく、まったく目立たないで、参禅もしませんでした。
ただ彼は、毎日黙々と畑を耕し、野菜を上手に作って、寺に来る人たちに施している、ただそれだけだったのです。
良寛さんは三十三歳で師匠から印可を受けて、それから三年の間、諸国行脚の旅を終えて、故郷の越後へ帰ってきました。
ある日、庵でお勤めの最中に、突然、かつての仙桂和尚の存在に気がついたのです。
「そうだ、彼こそ、ひたすら自分を守り、人の幸福を願い、黙々と大地に向かって禅を行じていたのだ」
と悟ったのです。
当時 我これを見ず。これに会って会わず。
ああ、今これを習わんとするも得べからず。
仙桂和尚は真の道者。
こんな詩を作って彼を偲んでいます。
考えてみれば、私の中にもこんな「仙桂和尚」がたくさん存在していますね。
出合っていたのに、気づかない。人の美点が、見えない。
「袖触れ合うも多生の縁」という言葉があるように、仏教では縁の深さを大切にします。
人生は出会いである。「縁」が出会いのきっかけである、と教えています。
日日の営みのなかで、仕事を通して、あるいは書物を通して、実にさまざまな出会いがありながら、それに気づかずに行過ぎてしまう。もったいないことです ね。
相田みつをさんも、作品のなかで「その時の出会いが人生を根底から変えてしまうことがある。よき出会いを」といっています。
「邂逅」と呼べる、ほんものの出会いを大切に、生かされていかなくてはなりませんね。