2011年(平成23年)3月のミニミニ法話・お説教
2011年(平成23年)3月
~ 第036回 「花語らず」 ~
永観堂の「みかえり阿弥陀如来」を感得された永観律師は、一日に三万遍、時には六万遍の念仏を唱えられましたが、厚い念仏信仰の根底には「生来の虚弱な 体質」という弱者の自覚を強く持っておられたようです。
それだけに、病気や貧しさに生きる気力をなくしたり、罪を犯さざるをえなかった人々、いわゆる「社会的弱者」に向けるまなざしには大変暖かいものがありま した。
自らの念仏信仰を生涯つらぬき通しただけでなく、衆生救済にも命をかけた人です。
そのために、境内には「施薬院」を設けて病人を助け、梅の木を植えて実を惜しみなく人々に分け与えました。
人々は永観さんの徳を感じて「悲田梅(ひでんばい)」と名づけて今に及んでいます。悲田というのは、貧者や病人の苦しみを救う行為をいいます。
3月に入って寒さが少し和らいだせいでしょう、永観さんゆかりの白梅がやっと花開きました。
中国原産のバラ科の梅は、奈良時代前期、遣唐使によってわが国にもたらされ、万葉のころから「春告草」「香栄草(こうばえぐさ)」とも呼ばれて、人々に親 しまれてきました。
梅をうたった歌は多いのですが、とりわけ次の歌は趣が深いものがあります。
君ならで誰にか見せん梅の花 色をも香をもしる人ぞ知る (紀 友則)
清楚な色と、ほのかな香りが身上の梅の花は、「君ならで」と思う人とともに味わうのが似つかわしいですね。
昨年二月、管長就任のご挨拶に南禅寺さんをお訪ねしたとき、方丈の廊下に「花語らず」という、いい詩が掲げてありました。かつて南禅寺管長を勤められ た、故柴山全慶老師の作です。
花は黙って咲き / 黙って散ってゆく / そうして 再び枝に帰らない
けれども その一時一處に / この世のすべてを托している
一輪の花の声であり / 一枝の花の真である
永遠に滅びぬ 生命のよろこびが / 悔いなくそこに輝いている
一輪の花にも、み仏のいのちが宿ります。
私たちに恵まれた、たった一つの尊いいのち。そのいのちの限りをつくし、いたわりあう心、己をふりかえる心、美しいものに感動する心、出会いに感謝する心 を大切にしたいものです。
そして、それが永観律師の感得された「みかえり」のこころでもあるのです。